魂はOSであり、「宿る」というインストールにはそれなりのスペックが必要だという話

魂は「宿る」と表現される。わたしはつねづね、どんな体にも魂は宿れるのか、と疑問に思っていた。虫、細菌、ウイルスなど宿っているのかな、と。

そこで作った仮説が、魂はある程度、体側にスペックがないと宿れないのではないか、という事だ。実際は、脳に宿るわけだが、この脳が高度化していないとインストールできないのではないか、と考えた。

一方で、体の方には、本能という体を維持するためだけにある基本システムが備わっている、と考える。これは遺伝子という設計図で代々繋がっていけるようになっている。この本能だけでも生きてはいける。虫を突っつくと怒るのは、本能が防衛として怒っているであって、魂が怒っているわけではない。犬が怒るのは、まず、本能が怒って、連鎖で魂が怒るのである。人なら、本能が怒っても、魂が知性をもって怒らずに済ませる場合もあるかもしれない。つまり、知性は本能を管理できる場合がある、と私は考えているのだが、これは別に論じよう。

わたしは、魂が宿れる体を高級体、宿れない体を低級体と名付ける。この関係は、電卓とパソコンのようなもので、電卓はOSをインストールできないが、計算は出来る。

さらに、器である脳のスペック次第で、魂は本能をどこまで制御できるか変わって来るし、魂としての表現レベルも変わってくると考えている。ネズミなんかはすぐ本能に負けてしまいそうだ。

イルカ、クジラ、犬、猫、ハムスターなどは魂が宿れるのだろう。
虫はどうもだめだ。魚もだめだろうな。

ここで寄り道的に思うのは、イルカ・犬を食うな、という論争は、根源的に言えば、魂が宿っていて、かつ、本能を高度にコントロールできる存在なのに、それを本能で生きている生物と同視して、無情に殺すことが野蛮だ、といっているのではないか、ということだ。

つづく

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